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宝塚・アフガニスタン友好協会

  アフガニスタン   (テロ組織アルカイダの誕生) 宝塚・アフガニスタン友好協会 ペシャワール会
代表 中村 哲
アメリカ・旧ソ連
サウジアラビア
イラク・アフガン 





1980年オサマ・ビンラディン旧ソ連軍と戦うためにアフガニスタンに来る。


1988年ビンラディンがアルカイダを結成。 





1996年8月ビンラディンが米国に「宣戦布告」を発表。     1996年9月タリバンががブールを制圧。




2001年10月空爆開始
2001年11月タリバン政権が崩壊。             













1994年宝塚・アフガニスタン友好協会設立。
1994年〜1996年内戦時(自立支援)
1996年〜2001年のタリバン時代かくれ学校支援(女性の教育禁止の中、女性教師の支援)




2002年復興スタート
2003年大学の支援活動




2006年〜2007年女子寮
建設
1984年ペシャワールに着任する。
1986年ALSを組織する。
1988年JAMSを旗揚げ。
1993年〜1996年
3つの診療所を建設。



1998年PMS総合病院を立ち上げる。












                                                                                                                                       
1955年オサマ・ビンラディンはサウジアラビアで生まれた富豪の末息子。
1979年旧ソ連軍がアフガニスタンに侵攻。

1989年旧ソ連軍がアフガニスタンから撤退。
1991年オサマ・ビンラディン、サウジアラビアから国外追放。


1996年8月ビンラディンが米国に「宣戦布告」を発表。




2001年9月11日
アメリカ同時多発テロ勃発。
2001年10月アフガニスタンに空爆開始

今は2008年、ここに来て、アフガニスタンやイラクの国の政治安定が
国際社会の財政負担をいかに軽減出来るか、その重要なポイントの時
期至ったことでしょう。そのアフガニスタンで最もウエイトを置きたいの
は農村部の耕作で大麻栽培を禁止し、農業の改革へと導く基礎を構築
する、其れらの手伝いを今私達がする時です。そして其の大麻の生産
が無くなれば、やがては世界で暗躍する闇社会が弱体化していき、そ
れらの反社会的な資金が枯渇していく事になるでしょう。
その方法の一つに、ケシ栽培から蕎麦を耕作する農法にチェンジできな
いか、私達でそのステップを組み立ててはどうでしょう。
今、農村部の人達は生きる為にケシ栽培をし、生活費を反社会的な組
織から得ているそうです。政府によって其の畑を強制的に焼かれ、誤っ
た情報で誤爆され家族が殺される、何処に、其の怒りをぶつければいい
のか、生きる為に家族を養うのに反社会的な組織と呼ばれるタリバーン
と協力し合うのは当然の事でしょう。
ここに、反社会的な組織と呼ばれるタリバーンが、アフガニスタンの復興
の為に政府と協力するようになる事を祈りつつ、日本のODAを活用した
り、私達の知恵を生かしてアフガニスタンの復興に少しでも協力できるよ
う西垣さんの宝塚・アフガニスタン友好協会の支援を続けていきましょう。

今は2010年、あれから2年たった1月、アフガニスタンでは以前より治安
が悪化して南部の80%がタリバーン勢力の支配下に置かれている状況
らしいです。
ケシの栽培によって精製される大麻の密売で得た大金をもとに、タリバー
ンとともに活動するアルカイダーはイエメン、ソマリアにその組織を拡大し
海賊行動の支援の資金に投資をして、高額な配当を獲得し次の武力行使
、即ちこれから起こすテロの準備資金を備蓄している様子です。
アデン湾を航行する各国の船舶を襲い、その船員を人質に身代金を取り
各部署、つまり実行部隊、人質管理部隊、身代金仲買部隊、船舶提供者
等の配当も前もって決まっている様子です。
2009年だけでも支払った身代金は500億円以上(各国合算)にのぼる
そうです。
アルカイダーが大きくなる状況を一刻でも早く止める必要があります。
遠いアフガニスタン出来事が、日本に生活する私達に思いもよらないほど
影響を与えているのです。

其の拡大を少しでも抑えるために現地の方と協力して私達の活動を広げ
て行きたいものです。

最後に、当サークル「あかいくつした」は、業務であるユーザー車検代行
で得た利益からTAFAに毎回¥5,000をDOWとして送金しています。

今回のテーマは、宝塚・アフガニスタン友好協会ですが、次回のテーマ
は、1985年から釜ケ崎で活動を続けている「出会いの家」です。
其の「出会いの家」では、毎日朝食、昼食、夕食と、3食の食事を出して
います。釜ケ崎の中で、労働者に1日3食を出しているところは、他にあ
りません。
朝食には、早朝の4時に梅干入りのおにぎりに海苔を添えて渡していま
す。「出会いの家」のおにぎりを食べて、「ありがとう」の言葉を残して早
朝から仕事を探しに労働センターへ出かけます。昼食には、午後1時に、
10分前に炊き上がったばかりのアツアツのご飯とアツアツの味噌汁、漬
物、海苔を出しています。炊きたてご飯にめぐり合う機会がなかなかない
釜ケ崎労働者には、とても喜ばれています。
夕食は、それぞれの教会でのボランティアグループの方達が交代で作っ
て下さる温かい日替わり丼と、手作りの漬物です。
一般の食堂で食べられる丼物にできるだけ近い丼をと心がけています。
11種類の丼メニューがあり、毎日同じものにならないように工夫してい
ます。夕食後は、心も体もホッとして、談笑したりテレビをみたりで、リラッ
クスムードとなっています。
このように、釜ケ崎労働者の人達に喜んでもらえるのも全て皆様の暖か
いご支援のおかげです。
これからも、「出会いの家」への力強いご支援をお願いいたします。
            
出会いの家だよりから
カンパの送り先
 郵便振替番号
 00930−0−120112    出会いの家



このたび、遠いアフガニスタンの地で、ペシャワール会の一員として活躍されていた伊藤和也さんが残念なことに亡くなられてしまいました。心から哀悼の意を表します。 2008.8.27